昭和49年03月27日 朝の御理解
御理解 第13節
「神は向こう倍力の徳を授ける。」
神様へ向かうと言う事は、ただ一生懸命にお参りをするとか、御用が出来るとかと、向かえば倍力の徳を頂ける様な信心と云うのは、おかげを頂かなければならんから、朝参り夜参りをしておると云うのでは、おかげを受けましょうけれども、お徳が倍力になると云う事は無いと思うですね。「おかげを頂きたい」と言うて、そりゃあだから、おかげはそれこそ倍も三倍ものこちらが向こうた、例えば千円のお供えすりゃあ三千円、一万円の例えば判りやすく言えば、おかげが頂けましょう。
それこそ倍力のおかげは受けましょうけれども、倍力の徳と云う物は、そう云う向かい方では、お徳は受けられないと云う事です。やはり信心を判らせて頂く喜びで向かうと云う事だと思うね。信心を判らしてもらうその喜びで、愈々神様へ向かう言わば迫力のある信心が出来ると云う事。是ならばもう絶対お徳を受けるです。倍力の徳を受けるでしょう。倍力の徳を受けて行くからです。言うなら信心の進展と云う物が早い訳です。言うなら本当に信心の稽古に通うて来るから上達も早い。
稽古じゃないおかげ頂きに参って来よる。それじゃ稽古は出来ません。話は一様に聞きよります皆。けれどもそれは何処迄も、おかげを頂くから、お参りをしておると云う事が、どんなに迫力のあるお参りであってもです。だからおかげは頂けましょう。「神は向こう倍力の徳を授ける」と。信心を判らせて頂くそこに喜びで向かうのです。昨夜色々まぁ不如意な事、自分の思う様にならない事、例えば御信者の中にでも、惜しいなあ此の人の信心は、質も良いのだから此の人の信心を。
本気で信心を頂こうと云う事になれば、お徳も受けるだろう。けれども今の様な状態では、ただ尻切れとんぼ的なおかげに終わってしまうんだが、と信者の誰彼の事を思う。身内の者の事を思う親戚の事を思う。是ほど有難いお広前でお生かしのおかげを頂いておる家族の者の誰彼の事を本当に惜しい、こんな事では惜しいとこう思う。親戚の誰彼の事を思う。そうしよりましたら御神眼に『あんな大きな劇場と云う物を見た事が無いですけども、その劇場の周囲が全部部屋になっておる。
そこに私が言うなら皆さんの場合、皆さんが一人一人その部屋の中に入っておる訳です。合楽に御神縁を頂いておると云う程しの人が、劇場の周囲の小さい部屋に皆入っておられる。それが中が劇場かなんか解からなっかったけれども、ドアが少しばっかり開いておる所は中が、もうそれこそ真昼の様に明るいんです。ですからあら此処の中にはこんなと言うて良く見た所が、中は大きな劇場であったと云う事なんです。
その周囲に私が今言う様に、心配したり思うたりしておる人達の、それだけでなくて、もう合楽に御神縁を頂いておる人達の、言うなら住まいがその劇場の周囲にあると云うわけなんです。時に私は思わせて頂いた。合楽に御神縁を頂いておるほどしの人、又は直接のご縁じゃなくても、第三者的な縁を頂いておる人もあります。そう云う人達がです。神様の御演出になるところの、合楽言うなら大発展のお芝居の、それぞれ役を持っておる人達だと言う事です。
[箱根山、篭にのる人担ぐ人、捨てた草鞋を拾う人]なんかそう云う確か詩があったと思います。篭に乗る人乗りたいと云う人ばっかりであったら、困りますもんね。やはり篭に乗る人もあって良し、それを担ぐ人があって良し、そしてその雲助が、捨てた草鞋をまた拾って回ると言う人もあって良いのだと云うのです。だからどう云う神様の深い深い御深慮の中に、神様の打たれる大きな手と云うか、お芝居というものがです。見事に此処の舞台でお芝居が演じられる程しのおかげを頂くと云う事。
為には様々な人があってよろしいんだと、それぞれの役に使われる人達だと云う事なんです。言うなら、只ただおかげ目当てに一生懸命に参って来る人ね、時々自分の都合の良か時だけお伺いの様な事に参って来る人、本気で信心が判りたいと言うてお参りをして来る人、本気で御用が出来る人、出来ない人、却って合楽の教会のそれこそ獅子身中の虫と言った様な人も有ってまた良いと云う事なんです。
例えば一生懸命お参りする人に、時々参っておかげを頂いておる人が、「もうあんた達ゃそげん参らんでん、もう信心も程々にしとかんの」と言う者を獅子身中の虫です。けどもそれもまたあって良いのです。神様の大きな御演出の元に、言わば開幕劇場の中に、もう明るい電気が点いておると云う事は、もう開場寸前と言った様な状態です。ここ二、三日、二十五年後に地球上の人類が破滅すると言った様な、予言をしておる、四百二十年前にしておる人の予言が的確に当たって行った。
九十九パーセント当たっておる。その人が二十五年後には地球の破滅を言っておる。総人類の破滅を予言しておる。その事がです。例えばなら昨日の御理解の中に申しております様に、自分で自分の首を括る様な事をするからだと云う事。破滅になるんだと勉強した。大学も優秀に卒業した。そして学問を身に付けたばっかりに、その学問のために窮屈になったと言う人がおる。
おかげを頂いた「もう此頃おかげを頂き過ぎてから、忙しゅうして忙しゅうしてお参りする暇もありません」と言うのは、おかげで首を絞める様なものである。私共がです。自分で自分の首を絞める様な、生き方ではないもう言うなら、末広にもう愈々自分の心が開けて行き、自分の心が有難うなって行き、愈々大きなおかげが頂けて行けれる、信心と云う物を身に付けて行く者の上には、言うならばキリストが言われたと言う、「信心をしておる者は生残るんだ」とね。
そう云うおかげが頂けれる道を辿れと言うのです。今日は私は神は向こう倍力の徳を授けると仰るが、本当に倍力の徳を頂かせてもらう事が、有難い楽しいだからまた倍力の徳を受ける。又より沢山な喜びが頂けれる。そう云うしてみるとその事の一言一言が全部有難い有難いで、答えが出て来る在り方でなからなければ、不平不足を言い愚痴を言い、愚痴を言わねばならん様な事があるけれども、その事はその事もです。おかげであると云う事。昨日私は鳥栖の上野さん所の五十日祭でしたから私が参りました。
それでまあその後五十日祭の後にお話しをした事でしたけれども、もう今の住んでおられる愈々段々手入れをして立派な、それこそ広々とした部屋も幾つもあって、お家ですから、「もうどげな事でんのお家で出来るっていの」と言うて話した事でした。広いから。それがあれを入手される前に、よその二階を借りておられた。所が急にそこの家主が、「さあ出てくれ。もう出てくれ」と言う事になった。
もうそれこそ一家中で参って見えられました。特にお父さんはもうそれこそもうと言うですか、血も涙も無い人じゃろうかと恨まにゃおれん様な、言うなら仕打ちを受けられた。「けど上野さん、そりゃあおかげじゃがな」と私は言うた。ね。そしてお繰り合わせを頂いてと云う所に今の家が見つかった。もうそれこそ今から考えると、どうしたあげなばかんごと安うしてああいう立派な家があそこにあったじゃろうかと思う様なお家だ。「してみるとあん時に。血も涙もなかごたる言い方をした。
大家さんは神様じゃったじゃないか」と私が、だから信心とはもうその時点時点でです。そりゃあ鬼のごと見える夜叉の様に見えるその人でも、その人の向こうには実は神様だと言う事実をね、私共は信心によって判って来る。それを力を受け徳を受けて来るとそれがはっきりと判って来る。それが「信心する者は肉眼を置いて神願を開けよ」と仰る。心の目を以てすると、それがおかげである事が解かって来る。
恨んだんじゃない。あん時にもうそれこそ「まあ良かですがね、ゆっくり家探してそして出て下さい」と云う事を言うなら、あげな家はとても買え出しゃあしなかったと私は思うです。是はまあそう云う例を言うなら、沢山例はあります。皆さんでも体験しておられるでしょうけれども、だからその時点でね、その事を有難く受けて行かなければと言うのです。そう云う生き方が、自分で自分の首を絞めない。もう愈々広がって行く道を歩かして頂く。だから金光様の信心しよりゃ生残るのじゃないのです。
まあ是も是は又改めて頂いた事なんですけれどもね、四百二十年前にそう云う予言をしたと言う、四百二十年間と云う間に様々な事が的確に当たって来たと云うはです。是は天地の親神様の大きな演出なんです。そして四百二十年後には合楽に大坪と言う人が現われて、和賀心時代を創ってねそして世界中に和賀心が広がらせて頂く事のために、言うならばこんなにも的確にこんな事が起って来るぞと言うて、それを避けれる道があるあるならそこから助かられる道があるならと言う事は誰あれも説いてはいないのです。
そげんなると言うだけである。そこで私が今から二十五年先の事を予言するならば、私の言うておる信心をまともに受けて、一切が広がって行く生き方、自分で自分の首を絞めんで済む生き方を身に付けて行ったら、そうい雨事は無いと言う事。そりゃ四百二十年間に起きてる事は事実であったろうけども、天地の親神様と云うお方はそう云う大きな演出してからでもです。沢山の犠牲を払うてね、例えば大東亜戦争も予言しておった。日本に原子爆弾が堕ちる事も予言しておった。
だからそう云う大きな犠牲を見せておかんとです。私共が本気にならんのです。ああ是はほんなこつそげんなったらどうするじゃろうかと云う気にならんのです。そこでなら其処から脱出すると言うか、抜けられると言うか、おかげが頂けれる、生残れると云うおかげを頂く為には、広がりに広がって行く所の信心を身に付け様と云う姿勢をまず作って、おかげじゃない信心を判らして頂く喜びを以てです。
その喜びを以て神に向かうと云う信心をさせて頂く、愈々倍力の徳がまた倍力の徳になって行く様なおかげを頂いて行く限りです。ね。地球が破滅すると言った様な事はない。人類が破滅すると言った様な事はない。だからそれを、此頃文男先生じゃなかけれども、「早く和賀心時代と云う物を世界に広めなければ間に合わん」と言うておる。成程私は、あの客殿に掛かっておるあの詩のね、三千年に一度しか咲かないと云う、そう云う、世の中、そう云う恩恵に浴しておると言う事の意味が書いてある。
例えば合楽の大坪と言う人は三千年に一遍しか出らんごたる人なんだ。その人が世の中に現われて、世の中がもう愈々破滅すると言う寸前に、世の中を救う様な働きをするんだと言う、まあそれを私がね自慢して言いよると思って下さいますな、是は御理解なんですから。ね。そう云う例えば大きな演出を神様がなさっておられる大きな舞台と云う事はその事であると私は昨日思うた。
だから、周囲にどう云う自分の不如意と云うか自分の思う様にならない人があってもです。それもまたおかげだと、お礼を申し上げる心で神へ向かうと云う事なんです。「神は向う倍力の徳を授ける」と云う事はそう云う事なんです。その時に頂いたみ教えですけども、二三日前、三福さん、高橋さん所から、鉢物のお料理が来ておりました。その中に、蕗ですね。お野菜の蕗を一寸位の長さに切って、それを昆布で巻いて煮込んであるお料理がありました。
それを頂くんですよ蕗と云うのは、富貴繁昌と云う富貴と云う所謂おかげと言う意味でしょう。合楽で是程しのおかげを頂いておるこのおかげをですよ、本当にもうあればっかりはどうした奴じゃろうかとか、困った事じゃあるとかありゃどうして俺の言う事きかんじゃろうかと、云う事で此のおかげがあったんでは相済まん。勿体ない事じゃないか。此のおかげを喜びで巻かなけりゃあ勿体ないじゃないかと云うお知らせだ。なら皆さんでもそうでしょう。目先に不如意な事があったりするとです。
どうしてじゃろうかとか、子供がどうして言う事きかんじゃろうかと言いよったんでは、今頂いておるおかげに傷を付ける様な物じゃないか。だからそれを喜びで巻いてこそ、初めて一つの立派なお料理になるのです。現在頂いておるそのおかげがね、そのおかげに傷を付ける様な事ですよ皆さん。おかげ頂いておるおかげ頂いておると言いよるばってん、ならこっちの方に例えば息子が言う事をきかん。どうした奴じゃろうかと言う事は、その頂いておるおかげに傷を付ける事です。
是じゃ云うなら倍力の徳になって返って来る様なおかげにならん。其処でその時点をです。例えばそれが鬼であろうが夜叉であろうが、その向こうに神様の姿を見る様な思いでしたら、それもまたおかげと云う喜びで、現在のおかげを又喜びで巻くから、愈々その喜びは大きな物になって行く訳です。所謂倍力の徳を授けると仰るのは、そう云う喜びを以て神様に向かうから倍力の徳が授けられるんだと思うのです。一生懸命にお参りしよれば、神様に言うなら向うて参って来るよる事だけは参って来よるばってん。
その眼目が何処にあるかと云うと、どうぞおかげば頂かして下さいで参って来よるじゃけん、おかげは頂きましょうばい。けれども倍力の徳にはならんです。「どうぞおかげを頂かして下さい」と言うて、一万円のお供えをすりゃ十万円のおかげを頂きましょうよそりゃ。けれどもそれは、倍も何倍ものおかげであってから、倍力の徳じゃありません。その徳を以てしなければです。二十五年後のそう云う地球破滅と言った様な時に、助かり残られる様なおかげにはならないと云う事です。
本気で一つ倍力の徳が受けられる様な信心をさせて頂きたい。それは、おかげを願うてはならんかと云う事じゃ決してないですよ。痛けりゃ痛い。痒けりゃ痒い。だから、お願いもしておかげも頂かなければなりませんけれども、其の事を通して、言うならおかげ頂いた時には、こう云う信心が解っとったと云う事になっておるかどうかと云う事なんですよ。おかげで、医者の見放した病人がおかげで助かりました。
助かっただけで終わっとる。ああいう言わば難しい所を、言うなら倒産寸前と云う時に、「お繰り合わせを頂いて、おかげで現在商売が繁盛しております」とこう言う。それは有難かろう。けれどもです。その繁昌が「もうこの頃繁昌のおかげを頂いて、忙しゅうしてお参りする暇もない」と言うなら、その繁昌が却って首を絞めるから、自分で自分の首を絞めて行く結果になると云う事。それはもう二十五年待たんでん、十年でも何年か先でも首を絞める様な事になるかも知れません。
だからそう云うおかげを頂かなければ、その難儀と云う問題ですか。昨日新聞を見せて頂いておったら、こう言う事が書いてあったからちょっと控えた。「教祖様が四十二歳の歳に、自身の難儀を言うならば感得された。次には四十五歳には家の難儀を感じられる。四十六歳には、世間の難儀さを感じられた。六十歳には天地間に住めるあらゆる人間の難儀を見出された」と。私は今日皆さんに言っておるのは、教祖様が六十歳にして「世間になんぼうも難儀な氏子あり」と云う、あの世間の難儀を感じられた。
例えば今あのう汽車が、電車が動かないですねえ。是なんかはもう、本当に世間の難儀です。そういう例えば今日私は、そういう人間の小さい自分自身の難儀、家の難儀と云う風に、教祖の信心の心境と云う物が開けておられる。今日は私は皆さんには言うならば難しいかも知れません。けれどもここ二、三日聞かせて頂く二十五年後の地球・人類の破滅と言った様な話が出てますから、言うなら世界中の総氏子の事の為にです。
祈らなければならない。願わなければならない。とにかく文男さんじゃないけれども、兎に角忙にゃいけない。二十五年の間に世界に和賀心時代、和賀心と云う事によって人間というものの幸せ、破滅にならんで済むおかげが頂けれると言う事実を判らせるだけでも、判らせんならんと言った様な事を今日は大体説きました。お互いの信心が一つ大きゅうなる。信心がそういう信心が判らせて頂く。
それだけ過程においては、今も過程の所をたどらなきゃいけませんよやっぱり。そこからです。そういうことを判らせて頂く。なら病気なら病気を通してこういう信心が判らして頂いたと言うそのお礼の心、その喜びの心で神へ向かうから倍力の徳が受けられると言うのです。一生懸命参ったから、それが倍力ではないと言う事。神様に向うたことにはならないと言う事。
それはおかげに向うたのであって、神様に向かう信心に向かうと言うのではない。もう私共の心をちょっとこう切り替えると、形は同じなんですから。だから信心を頂くというか、信心を判らしてもらう喜びを何とかして培わせて頂くとでも申しましょうか、自分の心の開拓なんです。信心の向きというか姿勢と云う物を、其処に置かして頂いての神様へ向かうと云う信心を、愈々極めさして頂かなきゃ出来ないですね。
どうぞ。